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夏目漱石の『吾輩は猫である』を、青空文庫で全十一章を読み返した。
明治三十八年から三十九年にかけて「ホトトギス」に連載された、名前のない猫が英語教師の家に居着き、まわりの大人たちをしみじみと観察していく長い笑い話である。
俺は昭和二十年代の生まれで、茶の間で親父が煙草をふかしながら新聞を広げていた時代を知っている。苦沙弥先生の書斎の空気が、どこか懐かしい。
この記事では、全十一章のあらすじを章ごとに短くまとめ、名前のない猫が俺たちに何を見せているのかを、還暦の俺のことばで読み解く。10分で名作の全体像をつかみ、青空文庫のタブを開き直したくなる記事を目指した。ネタバレを含む。
手に取って読むなら、ルビの多い新潮文庫版がよみやすい。青空文庫で読んで気に入ったら、紙の一冊を手元に置いておく読み方をおすすめする。
- 『吾輩は猫である』の基本情報と作品データ
- この記事で読者に持ち帰ってもらえるもの
- 第一章のあらすじ|名前のない猫が苦沙弥先生の家にいつくまで
- 第二章のあらすじ|鏡餅、三毛子、首くくりの力学
- 第三章のあらすじ|三毛子の死と、落雲館のサヴェジ・チー
- 第四章のあらすじ|金田邸、鈴木藤十郎、迷亭の空気銃
- 第五章のあらすじ|トチメンボーと、深夜の泥棒騒動
- 第六章のあらすじ|夏の縁側と、長い長い雑談
- 第七章のあらすじ|猫の運動と、夫婦の金論議
- 第八章のあらすじ|落雲館の悪戯と、三者三様の助言
- 第九章のあらすじ|あばたと、泥棒と、主人の思索
- 第十章のあらすじ|「もう七時ですよ」と、三平の訪問
- 第十一章のあらすじ|猫の死と、南無阿弥陀仏
- 連載号と、各章の軸になる出来事(年表)
- はじめて読む人への、途中でだれない読み方の工夫
- 考察|名前のない猫が、名前にすがる大人たちを笑う構造
- あなたなら、水甕の底でどうする?
- こんな人に合う/こんな人には合わない
- 読んだ感想|笑って、ふと寂しくなる、昭和の茶の間のような一冊
- 執筆後記|還暦の俺がこの一冊に戻ってくる理由
- この記事を書いた櫻田泰憲のプロフィール
『吾輩は猫である』の基本情報と作品データ

※各章H2直下に、本の目次・奥付スクショから作る16:9の「内容紹介ページ」画像を配置予定(読書スキル既定)。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 吾輩は猫である |
| 著者 | 夏目漱石 |
| 初出 | 雑誌「ホトトギス」1905年1月号〜1906年8月号 |
| 章数 | 全十一章 |
| 底本 | 「夏目漱石全集1」ちくま文庫(筑摩書房・1987年9月第1刷) |
| 入手先 | 青空文庫で無料公開中(著作権保護期間が切れたパブリックドメイン作品)/新潮文庫・岩波文庫などの文庫版あり |
| おもな登場人物 | 吾輩(名前のない猫)/珍野苦沙弥(英語教師)/迷亭(美学者)/水島寒月(理学士)/金田家の人々 |
| ジャンル | 明治の長編小説・風刺・一人称語り |
この記事で読者に持ち帰ってもらえるもの
- 猫の目で見た明治の家庭の、十一章ぶんのあらすじ(ネタバレあり)
- 名前のない猫が、名前にすがる大人たちを笑う、物語の芯
- はじめて読む人への、途中でだれない読み方の工夫
第一章のあらすじ|名前のない猫が苦沙弥先生の家にいつくまで

吾輩には名前がない。どこで生まれたかもわからない。薄暗いじめじめしたところで鳴いていたら、書生という人間につかまれ、ふわりと持ち上げられる。
書生に捨てられ、笹原をへて竹垣をくぐり、下女のおさんに追い出されそうになりながら、英語教師・珍野苦沙弥の書斎にすべり込んだところで、ようやく居場所を得る。
家のなかでは、おさんが邪険で、小さい子どもたちは猫の尻尾でぶら下げてくる。外では向かいの白、丁字横丁の黒。とくに人力車の黒は腕が強く、吾輩はいつも分がわるい。
主人の苦沙弥先生はやたらと水彩画をかく。「アンドレア・デル・サルトになるつもりだ」と気負っていたのに、ある日やってきた美学者の迷亭が、サルトの話はでたらめだったと白状する。吾輩は、人間というのはずるいものだとますますあきれる。
落合東風や寒月の名も、この章で顔を出す。猫の目で見た明治の珍妙な大人たちの、はじまりの章である。
第二章のあらすじ|鏡餅、三毛子、首くくりの力学
年が明けて、吾輩はちょっと有名になった、と鼻を高くする。元日の朝、鏡餅の雑煮に手を伸ばして喰いつき、歯にはりついて踊るしかなくなり、家族に見つけられて笑いの種にされる。
近所の二絃琴の師匠の家に住む雌の三毛子と仲良くなる。名前のない吾輩を、三毛子は「吾輩さん」と呼んでくれる。心が躍る。
水島寒月が訪ねてきて「首くくりの力学」なる珍妙な講義をはじめる。首をくくる縄にかかる力の計算に話が及ぶあたりで、迷亭も加わってホラ話に拍車がかかる。
鼠をいっこうにとれない吾輩は、おさんから「追い出すべき猫だ」との議論まで持ち出されるが、主人の「ふつうの猫ではない」という擁護で、のらくらと家に居つづける。やがて外出もおっくうになり、主人に劣らぬ無精猫になっていく。猫も人間と同じで、怠けぐせだけはすぐにつくのである。
第三章のあらすじ|三毛子の死と、落雲館のサヴェジ・チー

三毛子が病で死ぬ。吾輩はしばらくふさぐ。
だが人間からの便りが増えた。ある男は「吾輩の写真を送ってくれ」と手紙でたのむ。贈り物まで届くようになる。だんだん人間の方へ気持ちが近づき、同族を集めて二本足とたたかう気はなくなっていく。
一方、苦沙弥先生の裏の落雲館中学の生徒たちは、垣の外から「サヴェジ・チー、サヴェジ・チー」とからかいに来る。短気な先生は椽側から「やかましい」と怒鳴って、ステッキを持って往来へ飛び出す。
吾輩はあとを追って垣の崩れからのぞくが、往来には人通りがひとつもない。狐につままれた体の主人が、ステッキを持って突っ立っている。近所の見送る視線が、冷ややかに感じられる。猫も人間も、むきになると損をするという、笑いと寂しさがまじった章である。
第四章のあらすじ|金田邸、鈴木藤十郎、迷亭の空気銃
吾輩は例によって向かいの金田邸へと忍び込む。金田は実業家で、まわりは金と顔で動く世界。その中で寒月は「金田富子の婚約者候補」として値ぶみされている。吾輩はその空気を、床下や垣の陰で聞きとる。
ある日、苦沙弥の旧友で金田の子分・鈴木藤十郎が、迷亭と苦沙弥を訪ねてくる。鈴木は「金と多数に従え」と俗世の処世を説く。迷亭はあきれて「空気銃を背負うのがよい」とまぜ返す。鈴木と迷亭が立って帰るところで章は閉じる。
俗世の金に生きる鈴木と、俗世をおちょくる迷亭と、俗世にすねる苦沙弥。三者三ような明治の男たちが、茶の間の畳の上で向かい合う。俺はこの章を読むたびに、昭和の町会費の集金に来た近所のおじさんと、それを渋い顔でむかえた親父を思い出す。
第五章のあらすじ|トチメンボーと、深夜の泥棒騒動

迷亭が架空のメニューの話をする。トチメンボーだのオチメンボーだの、ありもしない西洋料理をメニューに書き足して、ボーイを困らせたという、まったくのでたらめ。本気で聞いていた一座が、やがて笑うしかなくなるあたりの呼吸がうまい。
哲学者の八木独仙もあらわれて、消極的修養の説教を苦沙弥にする。
やがて夜。吾輩は台所に泥棒(本ものの鼠)が出たらしい物音を聞きつけるが、やはり鼠はとれない。棚の上の摺鉢、ジャムの缶、火消壺が、崩れ落ちて半分は水甕の中へ、半分は板の間の上へ転がる。
主人は「泥棒!」と胴間声で寝室から飛び出す。片手にランプ、片手にステッキ。月は西に傾き、白い光りが半切ほどに細くなる。鼠一匹とれない吾輩と、鼠を泥棒とまちがえる主人。空騒ぎの夜である。
第六章のあらすじ|夏の縁側と、長い長い雑談
夏が来る。「こう暑くては猫といえどもやり切れない」と吾輩はぼやく。皮を脱いで、肉を脱いで、骨だけで涼みたいとまで言う。
ここで水島寒月のバイオリンの話が長々と語られる。田舎の高校時代、人目を忍んで古道具屋のバイオリンを買いに行くまでの珍道中。友人の東風や越智、迷亭、独仙がそれぞれの美学・哲学を語り、金田の令嬢の話まで持ち出す。誰もまともに働かない。みな茶の間で寝そべって、口ばかり動かしている。
吾輩は蟷螂を探しに庭へと脱出する。梧桐の緑のあいだから西に傾く日が斑に洩れて、幹でつくつく法師が鳴いている。読者は、長い雑談のなかから、自分で芯を見つけなければならない。だが、それがかえって読者と作品の距離をちぢめる、不思議な章である。
第七章のあらすじ|猫の運動と、夫婦の金論議

吾輩は近ごろ、運動をはじめた、と言い出す。「猫のくせに運動なんて」と笑うな、人間だって最近まで食って寝るのが天職だったではないか、と言いかえす。寒月のバイオリン購入の続きがここで片づく。
一方、茶の間では主人と細君の金論議がはじまる。大町桂月なる人物が「飲め、交際しろ、道楽しろ、旅行しろ」と書いたそうだ。主人は「桂月が勧めるからいいに決まっている」と言い、細君は「馬鹿をおっしゃい」と切って捨てる。「金があれば道楽もいいさ」と主人。「なくって仕合せだわ」と細君。
その夜、吾輩は豚肉三切と塩焼きの頭をいただく。俺もはじめて読んだとき、ここの夫婦のやりとりに、昭和の茶の間でチャンネル権をめぐって喧嘩していた親父とおふくろを重ねて、くすりと笑ってしまった。
第八章のあらすじ|落雲館の悪戯と、三者三様の助言
「垣巡り」という吾輩の運動の説明からはじまる。竹垣の外の落雲館中学の生徒たちは、相変わらず苦沙弥先生をからかいに来る。ダムダム弾のように落ちてくるボール、はやしたてる声。
苦沙弥は、積極的に打って出るか、消極的に逃げるかで悩む。鈴木藤十郎は「金と多数に従え」と来訪して説き、医師の甘木は「催眠術で神経を鎮めろ」と助言し、独仙は「消極的修養で安心を得ろ」と説法する。三者三様。
どれを選ぶかは主人の勝手だが、このままでは通せないと、吾輩は冷ややかに見抜く。貧乏教師が、多数に対してたった一人で挑もうとしている、そのむきになる姿そのものが、物語の芯なのだ。俺はこの章を読むと、昭和の町内会で一人だけ反対票を入れていた、無口な大工のおじさんの顔を思い出す。
第九章のあらすじ|あばたと、泥棒と、主人の思索

「主人は痘痕面である」と吾輩は書き出す。あばたの衰退と人口の増殖は反比例する、などと医学統計めいた軽口を叩く。
ある夜、本ものの泥棒が家に入り込む騒ぎが起きる。吾輩は、泥棒のようすを床下からつぶさに観察する。翌日、警察が来て取り調べが続く。
主人は書斎で「気狂いとは何か」というぼんやりとした思索を巡らせる。吾輩はそれを「心眼に映ず」として読者に伝えてしまう。猫がこうして人間の頭の中まで覗き込んでしまうのが、この小説のおかしさ。
主人は結論を出さずに眠りに落ちる。翌朝になれば、どこまで考えたかさえ忘れているだろう。人間はこうして日々、何かを考えたふりをして眠るものだ、と吾輩は冷ややかに見ている。
第十章のあらすじ|「もう七時ですよ」と、三平の訪問
「あなた、もう七時ですよ」と、襖越しの細君の声。返事をしない癖のある主人は、「うん」の一言すらすぐには出てこない。
女学生の雪江さん(主人の姪)と細君の軽口が、茶の間に笑いを連れてくる。多々良三平(主人の元教え子で実業家の卵)が訪ねてきて、「上野へ虎の鳴き声を聞きに行きませんか」と主人を外に連れ出す。二、三日中に三平は故郷に帰らねばならない、との話も出てくる。
三平の縁談のこと、金田家との関わりも、ここで物語の糸がすこしずつ結ばれていく。主人と三平が出かけたあと、細君と雪江さんは「げらげらけらけらからから」と遠慮なく笑い転げる。
男たちが出払った家で、女たちだけがくすくすと笑う。妙に生々しくて、読んでいて耳の奥がざらつく、そういう一章である。
第十一章のあらすじ|猫の死と、南無阿弥陀仏

床の間の前で、迷亭と独仙が碁盤をはさんで対局している。「負けた方が何か奢るんだぜ」と迷亭。「成敗を度外において、白雲の自然に岫を出でてというごとき心持ちで」と独仙。
やがて寒月が故郷で結婚した、との知らせがとどく。三平も結婚するという。書生たちや迷亭が集まり、おしゃべりが続く。
主人がビールを飲みのこしたコップが、台所に置き去りになっている。吾輩はそれを見つけてしまう。二つ三つ飲むうちに酔いが回り、庭を歩くつもりが、大きな水甕に落ちてしまう。爪で縁をかこうとするが登れない。もがくほどに苦しい。
やがて吾輩は「もうよそう」と抵抗をやめる。自然の力に身をまかせると、不可思議の太平に入っていく。「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。ありがたい ありがたい」。猫の目で見た明治の喜劇は、こうして静かに幕を閉じる。
連載号と、各章の軸になる出来事(年表)

| 章 | 連載号(ホトトギス) | 軸になるできごと |
|---|---|---|
| 一 | 1905年1月 | 吾輩が苦沙弥家にいつく/迷亭、サルトの嘘 |
| 二 | 1905年2月 | 鏡餅/三毛子/首くくりの力学 |
| 三 | 1905年4月 | 三毛子の死/落雲館のサヴェジ・チー |
| 四 | 1905年6月 | 鈴木「金と多数に従え」/迷亭の空気銃 |
| 五 | 1905年7月 | トチメンボー/深夜の鼠と泥棒騒動 |
| 六 | 1905年10月 | 夏の縁側/寒月のバイオリン前段 |
| 七 | 1906年1月 | バイオリンの続き/夫婦の金論議 |
| 八 | 1906年3月 | 落雲館の悪戯/三者三様の助言 |
| 九 | 1906年4月 | 泥棒事件/主人の「気狂い」思索 |
| 十 | 1906年8月 | 「もう七時ですよ」/三平の訪問 |
| 十一 | 1906年8月 | 寒月・三平の結婚/猫、水甕に落ちる |
はじめて読む人への、途中でだれない読み方の工夫
- 一章から通しで読むとだれるので、まず第一章と第十一章を先に読み、好みを確かめるのがよい
- 迷亭と寒月の長い雑談は、筋を追うよりも、口調そのものを楽しむつもりで読む
- わからない語句は青空文庫のルビをたよりに。ぜんぶ調べなくても、話はつながる
十一章ぶんのあらすじを一気によむとわかるが、この本は筋より口調で読ませる本だ。青空文庫のタブで章と章のあいだを行き来するより、紙の文庫を片手にゆっくり読むほうが、漱石の呼吸がよくつかめる。俺は折り返しの紐のついた新潮文庫版を、茶の間の文机にかさねて置いている。
考察|名前のない猫が、名前にすがる大人たちを笑う構造

名のない猫が、名にすがる大人たちを百年先から見ている
吾輩には、ついに最後まで名前がもらえない。第一章の冒頭で「名前はまだ無い」と宣言し、第十一章の最後で「吾輩は死ぬ」と締めくくる。その間ずっと、猫は名前を持たない。
一方、猫が観察する人間たちは、肩書き、名前、評判、地くらいにふり回されている。苦沙弥先生は「英語教師」という肩書きを気にして、生徒にからかわれると機嫌をわるくする。
迷亭は「美学者」の名で、ありもしない西洋料理をメニューに並べて笑わせる。寒月は「博士論文」の表題を気にして、ドングリの運動を延々と研究する。
金田は実業家としての金と顔で、まわりを値ぶみする。鈴木はその金田にしたがって「金と多数に従え」と説く。独仙は「消極的修養」なる美名で安心を得ろという。みな、名前と名目にしがみついている。
無名の猫は、その外から笑う。読者はいつの間にか、無名の猫の目をかりて、名前と肩書きの滑稽を見ている。
これは明治だけの話ではない、と俺は読む。令和の俺たちも、メールの署名、SNSのプロフィール、名刺の役職にふり回されている。茶の間でおにぎりを食いながらテレビを見るときの俺に、名前はいらない。だが世の中に出た途端、俺たちは名前にすがる。
漱石は、名前のない猫の目をかりて、俺たちの滑稽を百年先から見通していた。猫が水甕の底で「ありがたい、ありがたい」と言うとき、名前を手放したものだけが入れる太平を、俺たちに見せてくれている。
無名で生まれて、無名で死ぬ。その覚悟のうえにしか、本当のおかしさは立たない、ということを、この一冊は俺に教えてくれる。
あなたなら、水甕の底でどうする?

吾輩が水甕に落ちたとき、もがいて命を長らえるか、抵抗を手放すか。俺はたぶん最後までもがく。水甕のふちをどこまでも引っかいて、爪が割れてもあきらめない。だから漱石の猫のように、太平の境地に入れたことはない。
さて、あなたなら、あの水甕の中でどうする? 爪を立てつづけるか、手放すか。答えによって、あなたが人生で何をいちばん大ことにしているかが、ふっと見えてくる。
俺のばあい、「もがく」という答えが出た時点で、まだ太平よりも娑婆の味噌汁のほうが大事なのだ、ということがわかる。
こんな人に合う/こんな人には合わない
合う人:
- 物語で感情を揺さぶられるより、文章の言い回しそのものでくすっと笑いたい人
- 明治の東京の空気を、翻訳越しでなく、日本語そのもので味わいたい人
- コタツや縁側で、だらっと長時間寝そべって読む本をさがしている人
合わない人:
- 筋のある冒険譚やラブストーリーで、ぐいぐい引き込まれたい人
- 短時間でサクッと読み切れる軽い娯楽本をさがしている人
合わない人への代わり:冒険譚なら伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』、短時間でサクッとなら漱石の短編集『夢十夜』が、同じ漱石の味を保ちながら軽めに読める。

読んだ感想|笑って、ふと寂しくなる、昭和の茶の間のような一冊

俺はこの本を手に取るたびに、笑いながら途中でちょっと寂しくなる。
苦沙弥先生の家には、まともな仕事をしている人間がほとんど出てこない。迷亭も寒月も東風も独仙も、茶の間に転がって喋ってばかりいる。それがなぜか憎めない。喋って喋って、笑って喋って、また喋る。
読者は読み進めるうちに、ドキドキする筋を追う気分を、おだやかに奪われてしまう。この本には「次はどうなる」というスリルはない。あるのは、くすっと笑う時間と、ふと止まる時間だけ。
最後の猫の死にいたっては、しみじみとした静けさが来る。笑っていたはずなのに、水甕の底で猫が「ありがたい ありがたい」と言うところで、こちらの背筋が伸びる。
昭和の畳の部屋で、親父が黙って煙草をふかしていた午後のような感触がある。コタツで寝落ちしたときに夢うつつで聞いていたラジオのような、あの感触だ。何度読み返しても、俺はこの最後の静けさに戻ってくる。
執筆後記|還暦の俺がこの一冊に戻ってくる理由
この記事は、櫻田泰憲(俺)が青空文庫で『吾輩は猫である』全十一章を読み返した感想と、昭和の茶の間の記憶をもとに、AIアシスタントの支援で文章化し、俺が内容を確認・加筆して公開している。
書誌・連載号・底本の情報は青空文庫の掲載データで裏取りした。公式サイト・青空文庫で原文照合済み。作中の引用は、青空文庫のテキストから、短く最小限にとどめている。
俺はこの本を、二十代の冬にはじめて手に取り、四十代でもう一度、そして還暦をすぎた今また読み返している。読むたびに笑いどころが変わる。わかいときは迷亭のホラ話が面白く、今は苦沙弥先生の無口が沁みる。
名前のない猫が水甕の底で「ありがたい」と言うその一文に、俺はこの先の人生で、何度帰ってくるのだろうか。
この記事を書いた櫻田泰憲のプロフィール
櫻田泰憲(さくらだ やすのり・1964年6月24日生まれ・札幌在住)。昭和の茶の間と、母を見送った介護の日々と、本と漫画が友だち。「漫画と小説館」で、俺の目で読んだ本と作品の話を書いている。
青空文庫で全文を無料で読めるのに、なぜ紙の文庫をすすめるのか。理由はひとつ、ルビと脚注のある文庫版は、明治の語の呼吸ごと、ゆっくり味わえるからだ。
俺は、縁側のある家で育った親父たちと、スマホで青空文庫を読む令和のわかい読者のあいだを、こうした紙の一冊がつないでくれると思っている。
コタツに一冊、文机に一冊、枕元に一冊。そういう付き合い方のできる本だ。そして、ふと最終章だけを開くと、水甕の底から「ありがたい ありがたい」という声が、今日もしみじみと聞こえてくる。
筆:櫻田 泰憲


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